旅先のアメリカでまさかの肺炎
サトウ サンペイ 入院絵日記
まんが家のサトウサンペイさん(69)が、旅先のアメリカで肺炎になり入院したのは、昨年の11月だった。英語の国での病院生活はいやだと、女医さん、看護婦さんに付き添われて帰国したサンペイさん、この正月にようやく復調した。以下は、そのてんまつをつづった絵日記である。
昨年、私が絵と文でかいた『パソコンの「パ」の字から』(朝日新聞社)が18万部を越えるベストセラーになった。そして、私もまた、お絵描きやハガキ印刷やデジカメやスキャンができ、Eメールや写真やファクスが送れるようになった。この年でどうしてそんなことができるようになったのか? それは朝日新聞「Paso」編集部の須田剛さん(当時32歳)が、週に一回か、二週に一回、私の家に来て、教えてくれたからである。それも通算すれば一年以上になる。この大恩ある "須田先生" に何かお礼をしなければと思った。私は、全日空のファーストクラスの優待券を持っていた。行き先はパリでもロンドンでもよかったが、ちょうど11月の半ばごろに私はサンフランシスコで公演を頼まれていた。「シャンパンとキャビアつき、西海岸パソコンの『パ』の字の旅」ってえのはいかが? と誘うと、「わるくないですね。シリコンバレーも近いし、11月16日から全米最大のコンピューターの展示会『'98 COMDEX FALL(コムデックス・フォール)』がラスベガスで開かれるし、ぼくもそのころなら、時間がとれます」と須田先生は言った。私は11月12日に出発、サンフランシスコでの五日間は元気いっぱいで、はしゃぎ回っていたが、17日、ラスベガスに着いたころから、体が熱っぽく、息を吸うと右胸のあちこちが痛くなった。
チューブやケーブル 全身をグルグル巻き
コムデックスのメーン会場はどうにか見物したが、カジノやナイトクラブは、泣く泣くあきらめ、19日(木)にロサンゼルスのダウンタウンにあるハイアット・リージェンシー・ホテルに着いた。あまり痛いので、須田先生が探してくれたサンタモニカの「ニッポン・メディカル・クリニック」に行き、診察を受けた。ここは日本語が通じる。胸部のレントゲン写真を撮ると、右肺の下半分が真っ白だった。風邪ウイルスに侵され、肺炎を起こし、急激に肋膜の間に水がたまったようである。「うーん、仕方がないねえ、予定を早めて明日帰ろうか」と言うと、「どんでもない! あなたは人の半分しか酸素を吸っていないんですよ。即刻入院です」と、院長のロバート・Y・上田先生にしかられた。それで、同じサンタモニカにある「セント・ジョーンズ・ヘルスセンター」に緊急入院の手続きを取ってもらうことになる。ヘルスセンターといっても、かの大女優、エリザベス・テーラーさまも入院された、れっきとした大病院である。車が病院に着いたときはもう暗かった。急患用入り口から車つきの寝台で運ばれる。
アメリカのテレビドラマを見ているようだった。廊下の天井が何度も折れ曲がるのを見て、やがて病室らしいところに着いた。すると、人の気配がして、私の上に大勢の顔が現れた。みんなアメリカ人である。白い肌も黒い肌も茶色い肌もいる。産毛が生えている腕もある。目の色も髪の色も、みんなちがう。こんな間近で見ると、やはりドキドキする。そこでいろいろな検査や治療が行われ、CTスキャンが終わったのは20日(金)の午前1時だった。患者も疲れるが、アメリカ人もよく働く。
病室は二人部屋だった。真ん中に四分の三ほど閉まるオレンジ色のカーテンがあった。このごろでは集中治療室(ICU)も、コンピューターが小さくなったので、昔のような大きな部屋が必要ではない。患者の枕側の壁にひとつずつその設備がついている。私は看護婦にシャツを脱がされ、ひざ下5センチぐらいの水色の薄い布を着せられた。「ハクショーン、アイハブコールド」と言ってみたが、通じなかったようである。
それからチューブやケーブルを体にいっぱいくっつけられた。まず酸素ボンベのチューブの先端を鼻の穴に突っ込まれる。そして、左腕には点滴のチューブである。胸の三ヶ所には、金属板のついた丸いばんそうこうをはられ、そこからケーブルでコンピューターにつながれる。また、人さし指には白いサックがかぶせられ、これもケーブルでコンピューターにつながれる。このサックの先端には赤い豆電球が入っていて、いつも、ともっていた。こういう小さな計器たちは、私の血液中の酸素量や、心拍数や、血圧などを常に測っていてくれて、その数値を、壁に取り付けられたディスプレーに表示してくれる。その数値の一つが100を越えると、「ピーン、ピーン」と大きな音で鳴り始める。各部屋のコンピューターは、ナースステーションのモニターにもつながっていて、看護婦さんがすぐ駆けつけてくれるようになっている。私の場合は、はじめその数値が160もあり、「ピーン、ピーン、ピーン」と鳴りっぱなしだった。医者がよく「ディープ・ブレス」(深く息を吸え)と言っていたが、そのころがいちばん悪かったのであろう。何日かたち、数値が70ぐらいに下がってから、人間の生き方に関する面白い発見をした。そのことは「Paso」4月号(2月24日発売)に書きたい。東京で心配してくれている新聞社の人たちに電話をして、「死亡記事の予定稿を書いていたんじゃないの?」と冗談を言う余裕がでてきたのはこのころである。トイレに行きたくなると、チューブやケーブルをみんな外さなければならない。ふつうは看護婦さんを呼んで外してもらうのだが、看護婦さんを呼ぶと、部屋にある「簡易トイレ」でしろと言う。
たまたまカード使い 傷害保険に自動加入
私のほうは入り口に近い側なので、隣の部屋に出入りする人が、私の前をよく横切る。そういうところでうんちが出るわけがない。だから、自分でコンピューターのアダプターを外して行く。こういうことができるのも、パソコンを習ったからである。病室のトイレはカーテンの向こう側にあった。どうしてもひざ下5センチの布切れ姿で隣人の前を通らなければならない。隣人の名前には「サー」の称号がついていた。寝たきりのようだが、鼻の高い赤ら顔の、白髪の大きな老人で、いかにも貴族顔だった。付き添いの夫人も映画でよく見る英国上流階級の服装で、気品があった。その前を通って、トイレに入り、いろいろな音を立てるのも恥ずかしいが、行き交う人の前でするよりはまだマシか。検便用のうんちをこれにしろ、とプラスチックのお皿を出されたのにも面食らった。日本では棒の先にちょっとつければいいだけだ。そんなのいやだと断ってしまった。アメリカでは患者からの訴訟が多いらしく、医師や病院から何枚もの英文の同意書が出される。須田先生はていねいに読んで、ここにサインして下さい、と指をさす。先生の目のまわりが黒ずんでいる。二日目、11月20日(金)の朝、胸の皮膚に注射針ほどの穴をあけ、肋膜腔内の液体を60cc抜いた。また、夕方には肺の中に腫瘍がないかを調べるために鼻の穴から内視鏡を送りこんだ、と主治医のハバーマン先生の記録に書いてあった。いずれも全身麻酔だから、私にはわからない。しかし、その日か翌日かはっきりしないが、その治療にかかわった医師たちが来て、「クリーン」とか「ベリーグッド」とか言ってくれたので、安心した。朝日新聞国際衛星版の南村幸弘さんや、ロス支局の都丸修一さんが駆けつけてくれた。「助かりましたあ!」と須田先生が、バンザイをした。助かったのは英会話だけではない。看病のためにメシを食いそこなっていた須田先生にとって、都丸夫人のおにぎりやおはぎの差し入れも、ありがたかったにちがいない。入院四日目には日本から家内がやってきた。都丸さんと須田先生に同行してもらい、ニッポン・メディカルの上田先生に相談する。「検査のために手術をし、その結果、大手術にいたるかもしれません。保険のこともあるし、こちらでの手術は大変でしょう」「そりゃ、帰ったほうがいいです」と一同。「帰国するには、小型ジェット機をチャーターする方法と、民間の航空会社を利用する方法とがあり、前者の場合、給油のためアラスカ経由となり、時間もかかるでしょう。後者の場合、救急会社の派遣する医師と、医療器材と、それを扱う看護婦とを一緒にファーストクラスに乗せるのが条件です」
それがいいと言うと、上田先生が「エアレスキュー」という会社に電話をしてくれた。また運よく全日空で席の都合がつき、26日(木)に無事、ロス空港を出発することができた。成田からは病院差し回しの救急車で東京・新宿の東京医科大学病院に入り、第一外科の加藤治文教授のもと、検査と治療が行われ、手術もなく無傷で暮れの25日(金)に退院できた。この間、内外で大勢の方々のお世話になり、人と人とのかかわりが心に深く残り、病気ながらもありがたく楽しい旅となった。傷害保険をかけ忘れて出かけたのだが、アメックスのゴールドカードで米国内移動の航空券を買っていたため、自動的に保険がかかっていたのは幸いだった。セント・ジョーンズ病院などの治療費は、たったの一週間の入院で、約四百万円だった。うち三百万円と、エアレスキュー会社の請求額三百何十万円かの全額を、アメックスの取扱店「シグナ傷害保険会社」が支払ってくれた。これもまことにありがたい。
須田先生にお世話になったお礼に、こんどはドコへ一緒に行こうかな?
「週刊朝日」1999年1月29日号より
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